
暗号と自由の到来
【初めに】
現在のインターネットは,暗号技術に強く依存して成立している。通信の秘匿はもちろん,個人情報の保護や電子証明書の発行,さらにはブロックチェーンの運用まで,幅広い分野において暗号が重要な役割を果たしている。
もし通信経路で第三者が内容を覗き込めるとすれば,おそらく誰一人として会員制サイトに個人情報を登録したりはしないだろうし,あるいは通信相手が本物であるかも検証できないのに,人々が悪用のリスクを背負ってまでネットショップにクレジットカード番号を提供するはずがないに違いない。
そして同時に,暗号の持つ社会に対する力は強大である。暗号の安全性はすべて数学的な形式体系を取った理論に基づいており,現実世界の権力や権威とは全く無関係に,計算量によってデータの秘匿が保証されるという特徴を持つ。つまり,情報の媒介者に過ぎない政府やプロバイダは,情報それ自体が身にまとった暗号という着ぐるみを引きはがさない限りは通信内容を秘密裏に収集し検閲することが絶対にできないのだ。
暗号は,時として人々のプライバシーを守る傍らで,また時として政治を変革し,社会構造を大きく変えることがある。強力な暗号の登場によって独裁国家が国民の言論を統制することが困難となり,幾多もの政府の規制と暗号の自由を巡る戦いが勃発した。
特に暗号を用いて情報通信の機密性や安全性を高め,自由を得ようとする政治的イデオロギーは,暗号無政府主義(Crypto-anarchism)と呼ばれる。暗号によって発信元を秘匿し,暗号によって安全にコミュニケーションを取り,暗号によって非中央集権的な電子通貨で経済活動をする‥‥そんな机上の空論だった妄想が,わずか四半世紀の技術の急速な進歩によって現実の産物となり,今や国家という遠い過去に引かれた境界線を超えてボーダーレスに世界中へ広まりつつある。まさに,暗号と自由の到来だ。
【暗号技術の広がり】
今となっては政府に対する脅威ともいえる近代的な暗号は,むしろ,二度の世界大戦において政治的・軍事的目的のために幕を開けた。
ただ単調に武力を衝突させることによって相手を制圧する無機質な戦争が終わり,情報量が戦況を支配し勝敗を別けたことで,情報のもつ価値は飛躍的に高まった。それに伴い,敵国にスパイを送り込む諜報活動が活発に行われると同時に,自国の情報を保護することが最重要事項となり,情報セキュリティと暗号技術が重宝されたのである。
そして ,国家が互いに高度な暗号を作ってはそれを破り合うという無限ループ—つまりは終わりのない「暗号の戦争」が,人知れずして水面下で世界屈指の天才科学者たちにより行われていた。とりわけ第二次世界大戦において活躍をしたと言われているのはイギリスの計算機科学者アラン・チューリングである。チューリングは,「計算機が考える」ということを深く追求して自身の著書の中でチューリングマシンという抽象機械を導入し,今日では計算可能性理論と呼ばれる分野に大きく貢献したことで知られる。戦時にはイギリスの情報機関で,"解読不可能"と称されたほど強固なドイツが使用していた暗号「エニグマ」を解読する装置「bombe」を開発した。エニグマを連合国側が解読することに成功したことで,終戦が2年早まったとも言われている。
さらに,1969年にはアメリカでインターネットの前身となるARPANETが構築され,実験的なインターネットの利用が始まった。その7年後,通信の安全性が保証されないインターネットに適応した公開鍵暗号方式が発明され,これはインターネットの黎明期に,オープンソースのPGP(Pretty Good Privacy)として広く使われるようになった。
当初,アメリカ政府は国家安全保障を理由に暗号の輸出を厳しく規制しており,PGPのソフトウェア自体を銃砲や戦車に並ぶ「軍需品」として扱うことで,他国に流出するのを防止しようとした。しかしPGPの製作者であるフィル・ジマーマンは,アメリカ合衆国憲法修正第1条に保障される言論と出版の自由により政府が出版物を取り締まれないことを逆手に取り,PGPのソースコードを書籍として出版して輸出することでPGPをアメリカ国外へ合法的に拡散することに成功している(ISBN 0-262-24039-4)。

有刺鉄線の瓦解
暗号無政府主義の基礎は,1988年にティモシー・C・メイが発表した「クリプトアナーキスト宣言」(The Crypto Anarchist Manifesto)において確立された。
ここでは1997年のYAMANE Shinji氏による日本語訳を掲載する。
【クリプトアナーキスト宣言 (ティモシー C. メイ、1988年)】
妖怪が近代世界に出没している。クリプトアナーキー(暗号の無政府状態)という妖怪が----。
コンピュータテクノロジーのおかげで,個人や集団に,完全に匿名の方法で相互通信し対話する能力がもたらされようとしている。あらゆる人物どうしで,お互いの「真の名前」や法的身分証明などを知ることなしに,メッセージを交換し,ビジネスを行い,電子的に契約を取り決めてることができるのだ。いくつものネットワークを介した対話は,暗号化されたパケットの多重ルーティングと暗号プロトコルを実装した不正操作防止ボックス(あらゆる不正書き換えにほぼ完全に耐えうる)を介せば,探知されないだろう。そして,「評判」こそが一番重要になる。そしてその「評判」は,普通の商取引の信用評価は現在よりもはるかに重要なものになるだろう。ここで問題にしている技術の進歩進歩によって,政府の規制・課税・経済活動の管理監督・そして機密保持能力の性質は完全に変わってしまう。そして「信用」と「評判」の性質さえも変えてしまうだろう。
この革命(社会的な革命であると同時に経済的な革命になるに違いない)のための技術は過去10年来,理論上だけのものだった。すなわち公開鍵暗号・ゼロ知識対話式証明システム,そして対話・認証・証明のための幾多のソフトウェアプロトコルといった方式である。いままではこの技術の中心は欧米の学術会議であり,会議は国家安全保障局(NSA)に綿密に監視されていた。しかしようやく最近になって,コンピュータネットワークやパーソナルコンピュータがこのアイデアを実際の装置として具体化させるのに充分な計算速度を獲得した。そしてこの先の10年の計算速度の向上によって,このアイデアは金銭的に実行可能で,本質的に阻止不可能になるだろう。現在開発されている高速ネットワーク・ISDN・不正操作防止装置・スマートカード・通信衛星・マイクロ波中継装置・何MIPS(百万命令数/秒)のパーソナルコンピュータ・そして暗号化チップがその機能を付与する技術になるだろう。
政府は当然,国家保障の不安・麻薬売買や税金逃れの為の使用・社会崩壊の危険性を引き合いにだしてこの技術の普及を遅らせたり阻止しようとするだろう。これらの懸念の多くは正当なものだろう-つまり暗号の無政府状態は国家機密を自由に流通させ,禁制品や盗品を流通させるだろう。コンピュータ化された匿名の市場は強奪や暗殺のための忌まわしき市場を作りだしかねない。多くの犯罪者や海外の犯罪的構成分子は暗号ネットの積極的な利用者になるだろう。しかしこれは暗号の無政府状態の普及を止めはしない。
まさに印刷技術が中世のギルドや社会的権力構造の力を変革し,ひきずり降ろしたように,暗号もまた経済的取り引きに対する企業や政府の干渉の本質を根本的に変革してしまう。暗号の無政府主義は新しく生まれた情報市場と結合して,言葉や画像のあらゆる素材の流動市場をつくるだろう。そして,まさしく有刺鉄線のように一見とるにたらない発明が広大な牧場や農場を囲みかねない-たとえば,フロンティアの西部における国土と所有権についての概念を永遠に変えたように。ならば,数学の難解な一部門から出た一見とるにたらない発見も,知的所有権をとりまく有刺鉄線を取り去るような鉄線ばさみにだってなるかもしれないではないか。
立ち上がれ,君をとりまく有刺鉄条網のほかに失うものはないのだ!
【宣言の内容について】
クリプトアナーキスト宣言は,1988年—まだGoogleもAmazonも創業されていない時に発表されたにも関わらず,現在のインターネットの在り方を驚くほど高い精度で予測し,また過去の歴史的な革命になぞらえて,"暗号による革命"の指針を述べている。
暗号化された匿名のコミュニケーション,ネットビジネス,電子契約などは既に具現化し,人々の暮らしの中にあたかも昔からあったかのように釈然として存在している。ショッピングサイトの台頭により信頼と信用の在り方もいつの間にか大きく変化し,レビュー機能によって品定めをする人が増え,人々の意思決定の軸が権威から評価に変わりつつある。あるいは,より広義に解釈してみれば,ブロックチェーンにおける無数の分散システムによる相互承認の仕組みは,暗号による信頼の最奥と言えるだろう。
冒頭の「妖怪が近代世界に出没している。クリプトアナーキー(暗号の無政府状態)という妖怪が----。」という表現は,カール・マルクスによる共産党宣言の冒頭「ヨーロッパに幽霊が出る—共産主義という幽霊である」の模倣である。クリプトアナーキー宣言は,暗号が既存の政治体制や知的所有権の秩序を崩壊させることを予告しているのだ。
ティモシー氏が述べる「暗号による革命」は,多くの人が知らない間に無意識の中で進行し,その裏でNSAや政府機関が革命を防ぐために戦っていた,あるいは,私たちは今まさにその戦時下に居るのかもしれない。

シルクロードと三つの道具—Tor, PGP, Bitcoin
一番最初にインターネットにおいて完全な匿名化が実現し,暗号を使って会話をしながら仮想通貨によって商品の売買が行われた場所は,決して表立った明るい世界ではなく,2011年にダークウェブに突如として現れた闇市場「シルクロード」だった。
そもそもダークウェブは本当に存在するのだろうか?その答えはもちろんYESである。
Webにはある程度の階層構造があり,誰もがアクセスできるページをサーフェイスウェブ,パスワード認証など限られたユーザーのみアクセスできるページをディープウェブ,特にTorやI2P,Freenetなど特定のソフトウェアを利用しなければアクセスできないページをダークウェブという。
ダークウェブの大部分を構成するTorは,接続経路を匿名化する専用のアプリ,そしてプロトコルそのものの総称でもあり,その背景にある「オニオンルーティング」と呼ばれる技術はアメリカ海軍調査研究所の出資で開発された。現在,Torはフリーのオープンソースソフトウェアとして公開されているため,ネットワークの検閲や規制を行っている国に居ない限りは,誰でも自由に利用することができる。
Torは多重プロキシであり,オニオン・ルーター(ノード,リレーとも)を経由する度に暗号化を施し,まるで玉ねぎの皮のように何重にも暗号化が行われるため,オニオンルーティングと呼ばれている。また,Torのノードはボランティアによって運営されており,誰でもボランティアに参加する事ができるので,興味があれば参加して欲しい。
Torの構成するネットワークには「onionドメイン」と呼ばれる疑似的なトップレベルドメイン(TLD)が存在しており,このTLDを持つWebサイトこそがOnionサイト-いわゆる闇サイトと呼ばれる,サービスの利用者と提供者の相互が秘匿された空間である。
シルクロードは,ドレッド・パイレーツ・ロバート(DPR)を名乗る人物(後の逮捕時に当時26歳の青年,ロス・ウィリアム・ウルブリヒトと判明)によってOnionサイトとして立ち上げられ,個人の自由と自己決定権を重視して政府の干渉を最小限に抑えるべきだとする自由主義の下で,2013年にサイトが押収されるまで数年間に渡って運営された。
主な商品は,DPRの自由主義に適合するものすべてー違法ドラッグやマルウェア,盗難アカウントやクレジットカード情報であり,メディアからは"闇のアマゾン"と呼称されるほど幅広いラインナップであった。
Torを使用しなければアクセスすることができず,また取引には全てBitcoinを用いるという極めて閉鎖的なサイトであったにも関わらず,最終的には約96万のユーザーを抱えて,手数料としての毎月92,000アメリカドルの収益を得ていたという。
なお,押収した69,370 BTCについては急激なBitcoinの価値のインフレーションにより,2025年の時点で約6500億円と途方もない金額になっている。もちろん,これほどの大金を現金化すればBitcoinの価格が変動する可能性も否定できないが。
闇市場のコミュニケーションにおいて重要な役割を果たしていたのは,やはりPGPであったに違いない。PGPは暗号化ソフトウェアであるが,同時に署名によって自己同一性を保証する機能を有している。誰一人としてお互いに顔も名前も知らない人々の間で安全に取引を成立させるためには,売り手のレビュー機能とその整合性を保つための暗号が必須であった。
また,Bitcoinのエスクローシステムも特筆すべき事柄だろう。シルクロードでは,取引の際に無関係の第三者に資金を仲介させるエスクローシステムの利用が推奨され,これを利用することで商品を渡さなかったり資金を支払わないといった詐欺を未然に防ぐことができた。お互いが取引完了を承諾した時点で,買い手が予め第三者に渡していた資金が売り手に移るため,両者とも持ち逃げができないようになっていたのである。
シルクロードは,その結果だけを見れば有望な青年が道を踏み外して立ち上げた一つの闇サイトに過ぎないかもしれない。しかし思想の側面から考えてみると,シルクロードとはまさに自由主義や暗号無政府主義を目に見える形にしたものであって,現在のインターネットにまで大きな影響を与えていると言える。特にTor,PGP,Bitcoinを駆使した特定の当事者を信頼しない取引システムは,もしかすると今まさに社会全体が目指しているいわゆる「Web3」とやらの"さきがけ"であったのかもしれない。

情報化社会の未来
さて,ここまで暗号による革命の始動と軌跡について考察してきたわけであるが,そもそもこの革命は一体何処を終着点として目指しながら遷移していくのだろうか?
また,世界中で同時多発的に顕在化しつつある社会構造にはらんだ問題—例えば多様性の排除,文化圏の衝突,時代錯誤な政策,政治の闇などは,暗号技術の進歩と応用によって解決しえるのだろうか?
未来については推察の域を超えないが,少なくとも数年来の状況に鑑みれば,その目指すところは,従来の権威や中央集権的構造に依存せずとも信頼と合意が成立する自律分散型社会の実現といえるだろう。すなわち,権威による信頼と半ば強制的であれ相互契約によって成立していた現在の社会集団について,その結びつきを弱めて仲介者を排除し,透明性と耐検閲性を備えたシステムを普及させること鍵となる。
重要な政治判断は,選挙によって選ばれるごく限られた代表者で評決する代わりに,より不特定多数の参加する多数決によるものとなり,参考人として過去のデータを分析したAIが呼ばれる日が来るかもしれない。ブロックチェーンによって誰にでも検証可能な状態で政治資金が移動すれば,その横領や不正な流出は事実上不可能になり,もっと政治が明るくて日の当たる存在になるかもしれない。
ところが一方で,最近の仮想通貨の投資ブームを見ているとその期待も簡単に裏切られるのではないかと不安になる。多くの人は暗号無政府主義という言葉も知らずに,単なる投資目的でBitcoinを購入し,政府もそれに対して当たり前に規制を行う。
そもそもBitcoinは国家に依存しない通貨としてサトシ・ナカモトの論文に始まったものであるが,それが投資目的で購入され,ましてや課税されるということは大きな矛盾を抱えているのに,誰も疑問を呈したりはせず,せいぜい「今の税率だと投資しても損するばかりではないか」という利益を中心に置いた議論のみが巻き起こる。
Bitcoinの一番最初のブロックであるジェネシスブロックには,サトシ・ナカモトによってイギリスのThe Timesの見出し("The Times 03/Jan/2009 Chancellor on brink of second bailout for banks")が引用され,2008年の金融危機と銀行救済策への批判が暗示されている。
所有や移動に仲介者が必要ないという点で,銀行や政府などを懐疑的に考える人々によって支援され成長してきたBitcoinは,もはや既存の金融市場と同様に扱われている。本来の「国家に依存しない通貨」という役割が形骸化しつつあるとすれば,暗号による革命を成功させるためには,単なる技術的進歩以上に社会全体の認識や倫理観の普及が求められそうだ。